年表

17) おじいちゃん [自伝本『私のこと』]

私の祖父は かなり変わり者だったようだ。
 
“ウサギちゃん事件” でも 語ったとおり、少し変わった理屈の持ち主で
職業も 転々と替えたらしい。
父が子供の頃、お陰で よく転校させられて いい迷惑だったようだ。
関東に行った時は、方言や生活・文化の違いで、よく笑われたりしたそうだ。
そんなことも克服して、強く育った父だったが
(父にとっては、祖父は ある意味 反面教師だったのかもしれない・・・)
私が生まれてからも いろんなエピソードがある。
 
母が美容師だったため、土・日の遊びは もっぱら叔母達の出番と決まっていた。
しかし、時々 祖父がピンチヒッターとして 私の相手をしてくれた。
 
相手をしてくれたといっても、出掛けるのは 大概 近くの山だ。
大きな おにぎりを持って、ただ山を登るのだ。
「あの木は ○ ○ で、あの草は ○ ○ で・・・。」 などと うんちくを聞かされても
当時の私は、さっぱり興味外のことであった。
 
そして 祖父は、とても “新し物好き” であったようだ。
例えば、テレビは 当時の皇太子・美智子様のご成婚 見たさに、昭和33年に購入。
近所にうわさは広まり、大勢の人が テレビを見に来たそうだ。
電子レンジも 発売早々に購入している。
 
いろんな意味で まわりをまき込み
マイペース人間の代表のような人であったに違いない。
 
昭和50年、79才で亡くなったのだが
それまで ずっと 私も接していた。
現在では 核家族が多い中、祖父の存在は 大きかった。
病後は、母が祖父の面倒を見ていて、私に教えてくれた。
「目上の人を粗末にしてはいけない。
それは いずれ 自分にかえってくるのだから・・・」 と。
 
母の献身的な様子を見ながら育った私は
ほとんど 歩けなくなった祖父を、父と一緒に お風呂に入れた記憶もある。
私は すでに 11才だった。
本当は 恥ずかしかったが、必死に お世話をした。
おじいちゃんの気持ちになって、頑張ってみた。
あんなに 強そうだった おじいちゃんが、小さく見え
歩けなくなったり、衰えていく様は、とても淋しいものだった。
 
だが、多分、おじいちゃんの方が 私以上に 恥ずかしかっただろうし
辛かったに違いない。
 
人間として、いろんな面を見せてくれた おじいちゃん・・・。
亡くなった その時は、現実とは思えず、なぜか涙も出なかったが
火葬場の重い扉が閉まった瞬間
大泣きしたことは 言うまでもない。
 
私が 初めて 人の死に 直面した時である。
 
 
 

2009年01月20日(火)

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