95) HAWAII part? [自伝本『私のこと』]
海外に不慣れな両親とは、いろんなモメゴトがあり 大変だったが
めちゃくちゃ 楽しかった。
よく知っているようで、知らなかった一面をかいま見る。
何せ 24時間×6日間、シャワーとトイレの時以外は
ず〜っと一緒、なんてことは 今まで無かった時間である。
当時、一人当たり 25万円程した旅行であったが
それでも ホテルは、メジャーなランクとは ほど遠く
現地到着は夜中になってしまうツアーで、しかも
ダブルブッキングで予定されていたホテルに泊まれない、という事態に陥った。
私は、日本と違って 海外なんてそんなものだ、と諦め
とりあえず 今晩泊まれるホテルを紹介された。
父は、「こんなことは初めてだ !!! 俺は帰る ! 」 と怒りまくっていた。
「飛行機 飛んでないのに、どうやって帰るつもり ? 」 と
まるで 子供に言いきかせるように なだめ、最後には
「せっかく 私が企画した旅行だから、楽しんでもらいたい。」 とお願いした。
まぁ、スタートからハプニングだったわけだ。
父についてのストーリーは、まだまだ続く。
まず、ハワイに来て何がしたい ? と聞くと
『パールハーバー』 という答えが返ってきた。
父世代にとって、 ハワイ=真珠湾攻撃 である。
私は、この場所で とてつもなく重い視線を感じていると
父が、「ここでは、日本人は敵だから 行動を慎むように。」 と教えてくれた。
さらに、映画の上映。 もちろん モノクロ実写で、語りは英語だ。
私の両隣にいた父母が、二人揃って うなずいているので
まさか 英語がわかるのかと 不思議に思い、聞いてみると
父は、「俺は、書物で読んだから、この話は理解している。」 と言う。
母は・・・と思い 見てみると、眠くて ただ “舟をこいでいる” だけだった。(笑)
ワイキキビーチでのハプニングは
出掛ける時、私と母は 水着の上に軽いサマースタイル、ビーチサンダルだったのに対し
父は、スラックスと革靴で行く ! と言う。
「ハワイだよ ! ワイキキビーチだよ !! 」 と、何度説明しても着替えようとしない。
「かえって それは おかしいって !! 」
どうにか、革靴だけは 履き替えさせて、いざ ワイキキビーチへ。
ようやく、まわりの人々の雰囲気を嗅ぎ取った父は、一言・・・。
「俺は 痩せっぽっちだから、足を出すのが恥かしいんだ。」
・・・ ≪ん゛−−、確かにアメリカは マッチョな人が多いが
ごめん、やっぱり わかってあげられない・・・≫
父の もう一つのリクエストは、活火山が見たい、ということだった。
ハワイ島にある 「キラウエア火山」 は
当時、噴火の恐れがあり 立ち入り禁止になっていた。
しかたなく、マウイ島の 「ハレアカラ火山」 に行くことになった。
父は 記念に・・・と、火山岩を3〜4個 拾って持ち帰った。
私も 実は、ワイキキビーチの砂を 記念に・・・とキープしていた。
母は 後に暴露していたが、天然記念物の “銀剣草” を一房 持っていた。
「天然記念物は 取ってはいけないでしょ ! 」 と言うと
「・・・落ちてたんだもん・・・。」
≪うそだぁーーー≫
妙に “記念に・・・” が 好きな親子である。
Dole(ドール)のパイナップル工場へ行った時は
さまざまなフルーツを思いっきり食べ
「俺は フルーツ大好きなのに、食べさせてもらってない ! 」 と
余計なことを言って、母を怒らせたり
BURGER KING(バーガー・キング)では
飲んでいるところを見たことがないが、「俺は、コーヒーはブラックだ ! 」 と
お砂糖を入れようとした母を 撃沈させたり・・・ 終いには
初めて自分の両親の “夫婦喧嘩” の始めから終りまで見学することが出来た。
終始、思い出に残る旅行であった。
旅行から すぐ後のお正月に帰省した際、旅行のアルバムを見せてもらった。
一枚一枚に、父のコメント付き。
乗った飛行機の時間と型名から始まり、とにかく几帳面にコメントが書かれている。
私は、このアルバムの完成度に ただ驚くばかりである。
一番 心に残っているコメントは、私が写っている写真の下に
『愛娘の、娘と思えぬ姿である。』 と書かれていたことだ。
ライオンのような髪型に、サングラス姿・・・ 確かに 素直なコメントだ。
そして、3種類の “記念物たち” は、きれいなプラスチックの容器に
仲良く納まっていた。
父は、その後 何度か HAWAII を訪れている。
だが、お酒を飲む席では 必ず、私達と行った この旅行の思い出話を
何度となく 笑顔で 語ってくれていたのである。
1989年 11月 の旅行であった。
2009年11月03日(火)